キリンビールが独自開発した「ディップホップ製法」は、65°Cでのプレスティーピング+一次発酵初期のホップ添加により、華やかなリナロール(160ppb超)を維持しつつ、樹脂様のミルセンを酵母が吸着除去する画期的な醸造技術。2012年にグランドキリン開発と同時に特許取得され、2020年度には研究を主導した土屋友理研究員が日本農芸化学会「農芸化学女性企業研究者賞」を受賞した。
そもそもホップって何?初めてでもわかる基礎知識
ビールの原料は主に4つ:麦芽(モルト)・ホップ・水・酵母。このうちホップはビールに苦味と香りを与える植物で、ビールの味わいを決定づける最も重要な要素の一つだ。
ホップにはさまざまな香り成分が含まれており、柑橘系、フローラル(花のような)、トロピカルフルーツ、松やハーブのような香りなど、品種によって個性が異なる。醸造家は「ホップをいつ、どうやってビールに加えるか」で、これらの香りを自在にコントロールしている。
背景:ホップ投入タイミングによる違い
ビールの香りや苦味は、ホップをいつ投入するかで大きく変わる。主な手法は以下の3つで、ディップホップはその「いいとこ取り」を目指した製法だ。
| 製法 | 投入タイミング | 香り | 苦味 | 樹脂感 |
|---|---|---|---|---|
| レイトホップ | 煮沸終盤〜煮沸後の静置中(高温) | 中(熱で揮発) | 強い | 少ない |
| ドライホップ | 発酵後・貯蔵中(低温) | 強い | 少ない | 強い(ミルセン) |
| ディップホップ | 冷却後・発酵初期 | 強い | 少ない | 少ない |
樹脂感の正体:ミルセン
ドライホップ特有の「松ヤニ」「樹脂様」の香りの原因物質は、ミルセン(Myrcene)というテルペン系香気成分だ。
- ミルセンはすべてのホップ品種に普遍的に存在する成分で、ミルセンを持たないホップ品種は知られていない
- ドライホップでは低温のためミルセンが揮発しきらず、ビールに残留する
- この香りは好き嫌いが大きく分かれ、一般的には「飲みづらい」と感じる人も多い
つまり、ドライホップの華やかな香りを引き出しつつミルセンだけを抑えることが、ホップ香気を最大化するための重要な課題だった。
ディップホップ製法のメカニズム
なぜ樹脂感が消えるのか
発酵初期(冷却後の麦汁)にホップを添加すると、発酵中の酵母がミルセンを吸着・除去する。ミルセンが酵母細胞に付着してビール中の濃度が低下するのが、樹脂感抑制の主なメカニズムだ。
海外では「Active Fermentation Dry Hop(AFDH)」と呼ばれる「発酵中にホップを投入する」手法が知られている。しかし、キリンのディップホップ製法にはさらに独自の工程がある。特許(特開2019-110843等)によれば、ホップを事前に65°C前後の温度で加熱浸漬(Dip/Steep)(特許では45〜90°Cの範囲を規定)してから添加する。この「プレスティーピング」工程が、単なるAFDHとの決定的な違いだ。
香りはなぜ維持されるか
冷却後の麦汁は熱がないため、華やかなフローラル香の主成分であるリナロール(Linalool)が揮発しない。リナロールはラベンダーやベルガモットにも含まれる成分で、ホップの「いい香り」の正体だ。
| 製法 | リナロール濃度 | ミルセン濃度 |
|---|---|---|
| ディップホップ | 160ppb超(ドライホップ並) | レイトホップ並に低い |
| レイトホップ | 110〜120ppb | 低い |
| ドライホップ | 高い | 高い(樹脂感の原因) |
つまり、いい香り(リナロール)は高水準を維持しつつ、クセのある香り(ミルセン)だけを除去できるのがディップホップ製法の核心だ。
副次効果:発酵促進
研究の過程で、ホップ固形分が溶存炭酸ガスの気泡形成(核形成)を促進し、酵母の増殖・発酵が活性化されることも判明した。
興味深いことに、この効果はホップ以外の固形分(活性炭やオレンジピール等)でも同様に確認されており、ホップ固体粒子の疎水性が鍵であることが示唆されている。つまり、発酵初期のホップ添加は香り付けだけでなく、発酵そのものを助ける可能性がある。
研究の歩み
| 年 | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|
| 2012年 | ディップホップ製法の確立・特許取得 | グランドキリンの開発と同時に技術を確立 |
| 2020年 | 醸造協会誌に詳細解説を発表 | 土屋友理・太田拓「ディップホップ製法の解説」醸協 115巻8号, pp.458-468 |
| 2020年 | (参考)日本ホップ品種の解説も同誌に寄稿 | 村上敦司「日本のホップ品種」醸協 115巻4号, pp.195-202 |
| 2020年度 | 日本農芸化学会「農芸化学女性企業研究者賞」受賞 | 土屋友理研究員。発酵工程全般の研究成果が評価対象 |
| 2021年 | 「化学と生物」誌にメカニズム論文を発表 | Vol.59, No.11 ホップ×酵母の相互作用メカニズムを解明 |
ディップホップ製法で造られたビールを飲んでみよう
ディップホップ製法は、キリンの以下の製品に採用されている。実際に飲みながら「樹脂感が少ないのに香りが華やか」というポイントに注目してみよう。
Spring Valley 豊潤〈496〉
Spring Valley 豊潤〈496〉は、ディップホップ製法の代表的な製品。コンビニやスーパーで手軽に入手でき、ディップホップの効果を最も実感しやすい1本だ。「496」という数字は「完全数」を意味しており、素材と製法の完全なバランスを追求したビールというメッセージが込められている。
飲んでみると、最初にフローラルで華やかなホップ香が広がり、その後にモルトの豊かなコクが続く。通常のドライホップ系IPAと比べると、松ヤニ的な後味がほとんどなく、飲み口がクリーンなのが特徴だ。
グランドキリンシリーズ
グランドキリンは2012年にディップホップ製法と同時に生まれたブランド。「JPL(ジャパン・ペールラガー)」「IPA」「ひこうき雲と私」など、さまざまなスタイルが展開されている。いずれもホップの香りを前面に出しつつ、日本の消費者が飲みやすいクリーンな仕上がりを実現している。
Spring Valley Brewery
キリンが運営するクラフトビールブランド「Spring Valley Brewery」では、東京(代官山)と京都の直営店で限定醸造ビールが楽しめる。ここでしか飲めないディップホップ製法のビールもあり、醸造技術を肌で感じられる場所だ。
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ディップホップ以外の「ホップ香り最大化」アプローチ
ディップホップ以外にも、世界の醸造家たちはさまざまな方法でホップ香を最大化する技術に取り組んでいる。
| 技術 | 概要 | 代表的なブルワリー |
|---|---|---|
| DDH(ダブルドライホップ) | ドライホップの工程を2回以上繰り返し、ホップ香を増幅 | Tree House, Other Half, Monkish |
| ビオトランスフォーメーション | 発酵中に酵母がホップの香り成分を化学変換し、新たな香りを生成 | Trillium, The Alchemist |
| Cryo Hops | ホップを極低温で粉砕し、ルプリン(香り成分が集中した部分)だけを抽出 | Sierra Nevada, Deschutes |
| ホップバック | 熱い麦汁をホップの層に通過させて香りを移す装置 | Samuel Adams |
| ディップホップ | 65°Cプレスティーピング+発酵初期添加 | キリンビール |
ディップホップ製法のエッセンスは自宅醸造にも応用可能だ。ポイントは以下の3つ:
- 発酵初期(ピッチ後24時間以内)にホップを添加する — 酵母が活発に増殖する時期にミルセンの吸着効果が最も高い
- ホップを65°C程度のお湯で15〜20分浸漬してから添加する — これがキリン特許の核心。単にドライホップの時期を変えるだけでは不十分
- リナロール含有量の高い品種を選ぶ — Citra、Mosaic、Nelson Sauvinなどがおすすめ。ホップ辞典で検索できる
よくある質問(FAQ)
ディップホップ製法とドライホップの違いは何ですか?
ドライホップは発酵後・貯蔵中(低温)にホップを添加する手法で、強い香りが得られる反面、ミルセンによる樹脂様の香りも残ります。ディップホップ製法は発酵初期にホップを添加し、さらに事前に65°Cで加熱浸漬する工程を加えることで、酵母がミルセンを吸着除去し、樹脂感を抑えつつ華やかなリナロール香を最大化します。
なぜ酵母がミルセンを除去できるのですか?
ミルセンは疎水性の高いテルペン化合物で、酵母細胞の細胞壁に物理的に吸着(付着)します。発酵初期は酵母が活発に増殖する時期であり、大量の酵母細胞がミルセンを取り込むことでビール中の濃度が低下します。簡単に言えば「酵母がミルセンを掃除機のように吸い取ってくれる」イメージです。
65°Cの加熱浸漬(プレスティーピング)は何のためですか?
キリンの特許に記載されたこの工程は、ディップホップ製法と一般的なAFDH(Active Fermentation Dry Hop)を区別する重要な要素です。65°C前後での加熱浸漬により、ホップからの香気成分の抽出効率を最適化し、後工程の発酵中に酵母との相互作用がより効果的に機能すると考えられています。
ミルセンを含まないホップ品種はありますか?
いいえ。ミルセンはすべてのホップ品種に普遍的に存在する成分であり、ミルセンを含まないホップ品種は知られていません。そのため、ドライホップで樹脂感を完全に避けることは品種選択だけでは不可能であり、ディップホップのような製法上の工夫が必要になります。
自宅醸造でもディップホップ製法は実践できますか?
基本的な原理は応用可能です。ホップを65°C程度のお湯で15〜20分浸漬してから、ピッチ(酵母投入)後24時間以内の麦汁に添加する方法が考えられます。ただし、キリンの製法は大規模醸造設備での温度管理と品質管理を前提としているため、自宅醸造では完全な再現は難しい点にご注意ください。
Spring Valley 豊潤〈496〉はどこで買えますか?
Spring Valley 豊潤〈496〉はスーパーマーケットやコンビニで広く販売されています。グランドキリンシリーズも主要な量販店で入手可能です。Spring Valley Breweryの限定ビールは、東京(代官山)と京都の直営店で飲むことができます。
リナロールとは何ですか?
リナロール(Linalool)はテルペンアルコールの一種で、ラベンダーやベルガモットにも含まれるフローラルで華やかな香気成分です。ホップの香りの中でも特に好ましいとされる成分の一つで、ディップホップ製法ではレイトホップ(110〜120ppb)を大きく上回る160ppb超の濃度を実現しています。
参考文献
- 土屋友理・太田拓「ディップホップ製法の解説」醸協(日本醸造協会誌), 115巻8号, pp.458-468, 2020年. [PDF]
- 村上敦司「日本のホップ品種に関する解説」醸協(日本醸造協会誌), 115巻4号, pp.195-202, 2020年.
- 土屋友理ほか「ホップ×酵母の相互作用メカニズム」化学と生物, Vol.59, No.11, 2021年. [記事]
- キリンホールディングス 特許: 特開2019-110843「ビール様飲料の製造方法」
- 日本農芸化学会「2020年度 農芸化学女性企業研究者賞」受賞者一覧.
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- ホップ辞典 — 83品種のホップデータベース。リナロール含有量で検索可能
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